私の徒然なるあれ。
働き方について考えさせられることがありました。
(しんどいことがあったのではないよ!)
正社員でのヨガインストラクター時代、常にどう働いていったらいいのだろうと考えていたことがあります。
今日同僚と話す機会があったので、ちょっと個人的に考えていることを書きたいなと思います。
(あくまでも個人の意見。誰かや何かを責めたいわけではないのです。)
晴れて正社員でヨガインストラクターになった当時、レッスンをさせてもらえることは貴重で、自分自身という存在よりも「その仕事」を任せてもらえる、その仕事をしている自分が崇高だと思っていました。
もちろん、今でも仕事をさせてもらえる感謝は変わっていません。
とても素晴らしい仕事だなと自画自賛?というより仕事自体を褒めています。笑
でも、純粋な気持ちを持って、憧れがあっても、覚悟があっても、だんだんと進めば進むほど道は険しい。
熱があっても、体調不良でも、休めない。
仮に休んでも申し訳なさでいっぱい。
権利として与えらるべき休みでさえ、罪悪感が伴う。
こうでなければ、インストラクターではない、プロではない。
プロでないなら名乗るな。
それは道を突き詰めればどんなことだってそうなのかもしれない。
でも、それで人材が育つのだろうか?
正しい!と信じるあまり、いきすぎた正義のように、頑張っていた時代があります。
そのせいでやりたいと思っていた気持ちを、せっかく芽生えかけた芽を摘んでしまったのではないかと、落ち込む時期がありました。
そういった窮屈さを人に押し付けていた。
それを良しと思って、私だって頑張っているんだ!と自分のことを守っていました。
そういうことも含めた辛いものが人生だと、
辛い事こそが人生だと、思ってきました。
でも、こういうことばっかりで生きるのはしんどいな、と感じたりもしていた。
そのまま、どんどん他人に厳しくなる自分がいて、正しいかもしれないけど、そんな自分を好きになれないでいた。
それはヨガの言う調和がとれた状態と程遠かったから。
色んなものを切り離さなくては生きていけない、そんな生き方が辛かった。
人に心と体を繋ぐと言いながら、それが叶わない日常が辛かった。
幸せと感じられる日常が大切だと、理論上わかるのに、自分が出来ていない。
だから当時は幸せになろうとする人を、痛みを避ける人を許せなくて。
痛みがあって当たり前だと。
なんで避けてるんじゃい!と。
でもそんな環境に耐えられなくて選ぶことをやめ、違う生き方をと迷いながらここに来て思うのは、
あなたはどうしたいの?
と考えること。
そして、痛みがあるのはミスアライメント。
これって生き方も同じだったこと。
心のままに生きても死なないし、むしろ、私は年々自分の生きる人生が愛おしい。
年々、出会う人が好きで好きでたまらない。
こんなことって、あるんだな、と本当に本で見た世界が現実になる感覚を覚えています。
だからね、考えるきっかけがあったらいいなって。
あなたは本当はどうしたいのかなって。
誰かに何かを言われたとかじゃなくて、
こうしなきゃいけないとかじゃなくて。
いきなり仕事を辞めて好きなことをしろというのでもなく、最低限のバランスがあるのはわかっています。
だから、小さいことから始めませんか。
いつもはそうですよね~って流してた自分の意見を言わずにいたことを
自分の思ってることを言えた瞬間を褒めるとか
ちょっと嫌だなと感じていたことを辞めてみる
(飲み会の誘いを断るとか)
ちょっとやってみたかったことの一歩を踏み出す
(私はヨガの仕事に憧れた時、まずは本を買って読んでました)
それが仕事になるの???って思うかもしれないけど、
もっとこれからの女性が、
男性でもそうなんだけど、
選べる社会になってほしいなって思っています。
抽象的でめちゃくちゃ主観的だけど、
今まではそれを選ぶなら死んでも文句いうなよ、みたいな世界だったと感じることしばしば。
これからは!
そうでなくて、あなたはそれを選ぶんだね!
何か協力しようか?
そういえば私もこういう風なことを考えているんだけど、手伝ってもらえない?
というような世界にしていきたい。
これがあっているかわからないけど。
わたしは調和の世界に生きたい。
そこで誰もが生きられる世界になったらいいなって思うのです。
小さな主張で、どんなことができるかまだまだ未知数ですが、これからの未来のインストラクターに、未来の女性が豊かに働ける世の中になったらいいな。
小さな願い。
大きな期待。
自分にできることは?
その現実を証明できるよう、頑張ろう。