Airiyogalog

ヨガインストラクター育成講師をしている坂本亜衣理のBlogです。活動エリア:東京,恵比寿,千葉

死ぬ権利、生きる権利

死ぬ権利、生きる権利

 

先月末、父が倒れました。

 

脳幹出血と聞き、仕事で解剖も解説するのでそのワードだけで大変なことだと言うことはすぐに察することができた。

 

お医者さんの話では脳の中心だから手術もできない。

投薬治療の末どうなるか見守るしかできない、とのこと。

 

 

 

 

少し違う話をします。

 

 

大学時代に好きだった授業の一つが【生命の倫理】という授業だった。

 

脳死は人の死か?とか、胎児は人なのか?というようなトピックについて考えていく授業でした。

 

私は小中高と机に向かうことは嫌いでなぜそれで大学に行きたいと思えるようになったのか今思えば不思議なのだけど。

 

人間に興味があったのは確か、

 

そして大学の「考えるタイプ」の授業がとても楽しかった。

 

 

そして先日ニュースで

ASLの患者さんが安楽死を望み、それに答えたお医者さんが殺人罪だと問われたこと。

(ほんとに安楽死を望んだのかが争点みたいですけれど・・・)

 

 

生きる権利や死ぬ権利というのは本当に難しいテーマだなあと思ったのを大学時代に考えていたことを父が倒れたことで鮮明に思い出しました。

 

 

こういう話題は誰もがかならず同じ思いではないのでこれが正解!とかを話す気はないです。

が、呼吸さえままならない、ご飯を点滴で鼻から入れることで生きている父の姿を見てこれは“生きている”なんだろうか。とぼんやり考えていた。

 

 

私はクオリティオブライフという考え方が好きです。

 

ただ数値的に生きてるだけって、どうなんだろうと。

心臓が動いているから生きている?

意識「レベル」が確認できるから生きている?

でも、もしこれが息子だったら、旦那さんだったら、そんな状態でも生かしてしまうかもしれない。

とにかく自分がもし脳死状態になったら、もう潔く臓器を使ってもらって死を受け入れたいと思っています。

 

ですが、こればっかりは想像と現実の選択は違うのかもしれません。

 

 

とはいえ、いろんな感情や思いを感じながら生きるのが生きていることではないのかと思ってしまいます。

・・・きっとヨガの目的とはズレますが。

(ヨガではそういう心の作用を死滅させることが目的と言われています。)

 

そう、思ってしまいます。

 

 

 

話を戻すと父は麻痺が進み、言葉も日に日に話せず、常に痰が溜まり、チューブでそれをとられる様な状態。

(またそれが鼻からで痛々しくて見ていられないくらい)

 

なんとか出る言葉はもう、だれも理解できないうめき声。何度も聞き返して、言葉にするのを諦める父を見ると苦しい気持ちでした。

 

 

主張ができないというのは辛いことです。

 

 

そんな父は、この先どうなるんだろう。

 

 

そう思っていたのも1〜2日で、その選択は突然やってきた。

人工呼吸器をつけるか、それともこのまま弱っていくのを見送るか。

それを家族が決める必要がありました。

 

 

 

 

難しい。

いざ突きつけられると、ほんとーに難しかった。

 

私だったら、と主観で考えることはなんの役にも立たないかもしれないけど、この世で生を受けた父の役目はもうがんばったと思ってしまいました。

 

たくさん遊びに連れて行ってもらったし、バージンロードも歩かせてあげたし、孫も見せたし、これでいいのではと。

なにより、もう苦しませないであげてほしいとも思った。

 

 

でも、もし仮にもう本人が“終わらせてほしい”と思っていてもその言葉さえままならない。

もし”生きたい”といっていたら勝手な私の思い込みでお父さんを送ることになる。

 

 

けれど、話し合った末私たち家族の選択は、このまま、見送ろう。というものでした。

生前父からは世捨て人発言が頻発していた。そう思うともう父は「生き続けること」への気持ちもめげいてたのかもしれないな、と判断しました。

 

その証拠だったのか、体調不良だったからなのかお葬式に来てくれた同世代の男性たちよりもぐっと老け込んでいたお父さん。

病は気から、なんてよくいったもんだ。

 

 

お父さんは死ぬ前から心がもうここにあらずだったのかもしれない。

 

 

 

いろんな人に「惜しいね、せっかくおじいちゃんになったのに・・・」「もっといろんなことがあったはずなのに・・・」

そう言われると私もそうだよなあと思ったけど。

それを望み始めたら、人は死ねませんし、もっともっとと求めれば尽きません。

 

 

形あるもの、すべて変わること、それが不変の事実であることを強く感じた、そんな数日でした。

 

 

 

落ち込んでるか、と言われたらそうでもあるし、そうでもない。

悲しみのピークが見送る直前から見送るまでだったので、もうお葬式はそこまで落ち込めなかった。むしろ、よかったね、お疲れ様、ありがとうという感じ。

 

そんな冷静だった反面、葬儀が終わって帰りの車で息子が寝たあと、なんかすっごく泣けてきて。過去に一緒に楽しく過ごした思い出が蘇って、いろんなたらればが巡るめぐる。

 

旦那さんにどうにか元気にしてもらってその場のことなきを得ました。

(というより旦那さんが道間違えすぎて涙が止まる。笑)

 

 

非常にコメントしずらい話題ですが(なので読み流してくださいね)それぞれいろんな人に死というトピックが定期的に訪れてその度にみんなにそれぞれ考えさせるものがあるかと思います。

 

だから、これは私の忘備録です。

 

私はちょうど、このASLの患者さんの事件とその時の自分の話題がリンクしすぎてこのブログを少しずつ書き溜めていたのですが・・・(介護の話題になるかと思ってた。)

 

 

そしたらなんとそのまま1週間ほどで父が亡くなってしまい、表現を様々編集し直すことになった。

なんということだ。

家族の誰もが『え!?』と思った。

だって憎まれっ子世に憚るなんていうから、そういう意味でもきっとお父さんはしぶといぞ笑と思っていたからびっくり。

 

 

せめてちゃんと終わりを見届けられたことは幸せだったと思います。

 

 

 

めっっちゃありきたりな言葉で締め括りますが、

今を生きよう。

好きな人には好きだと伝えよう。

感謝していることはありがとうと伝えよう。

変な意地を張ってるならそれはすぐにやめて、仲直りしよう。

やりたいことがあればできることからやっておこう。

そしてものは持ちすぎず、大好きなものだけを身の回りに置いて、清潔に過ごそう。

 

 

そんなことを心から学んだのでした。

お父さん、ありがとうね。またね。