『湧き上がる気持ち』はただ、認めてもらいたがってる
『湧き上がる気持ち』はただ、認めてもらいたがってる
坂爪圭吾さんの最近のブログで心に残っていること。
わたしはミユさんと言う女性を広い意味で愛していて、だが、最近のミユさんのnoteの記事の最後に「大好きな男性と東京でイベントをします!」と書いてあるのを見ると、穏やかではない気持ちになる。
誤解を恐れながら言うと、共演者の男性に対して「けっ!」みたいなことを感じる。そして、ああ、これが嫉妬なのかということを思い知る。
俺のほうがあいつよりももっと彼女の魅力を知っているはずだ、とか、勝手なことを思い巡らせて自爆する。別に、その人が誰かを好きだと思うことが、自分に向けられた愛情の減少を意味するわけではない。
頭ではわかっている。頭ではわかっているはずなのに「お前がそっちに行くなら、俺だってあっちに行っちゃうぞ!」とか、幼稚的な反発心を燃やして一方的に拗ねる。
書きながら「自分、まじでだせぇな」と思う。
まじでだせぇなと思いながら、嫉妬を打ち消す方向ではなく、嫉妬を受け入れる方向に舵を取る。嫉妬をするということは、その人が、自分にとって大切なひとだからだ。だからこそ、嫉妬をしない方向(ひとりになる方向)に舵を取るのではなく、そのひとを好きだと思う「その気持ち」に殉じる方向に舵を取る。そう思った途端、嫉妬を悪いものとしてではなく、嫉妬を当たり前のものとして受け入れた途端、不思議と、嫉妬の思いは消えてなくなった。
後に残ったものは『爽快感』だった。
愛されたいと願うより、好きでいてもらいたいなどと願うより、自分はただ、自分が思う『好き』に殉じればいい。その『好き』が、時には嫉妬という形を借りて表現されることもある。
しかし、自分の嫉妬を打ち消すことは、自分の好きを打ち消すことにもなる。だからなのだろうか、嫉妬を認めた途端、嫉妬は消え、ただ『好き』だけが残った。時折、恋愛ドラマなどで「私とはただの遊びだったの!?」みたいな感じで、男性に翻弄された怒りを表現する女性を見る。それを見るたびに、わたしは、こんなことを思う。
これはお前との関係だけじゃない。俺の人生は、全部、遊びなんだよ。と。軽い気持ちで付き合っていることを咎められても、俺は、愛も、命も、人生も、重いものにはしたくない。無責任だと思われようが、俺は、軽い気持ちでやっていきたいんだよ。と。
心はあなたのもとに。 - いばや通信
私もこれ、感じているなあと思いました。
それこそSNSとかはまさにそう。
SNSを開くと色んな人の色んな様子が見れる。
私も含めみんな日常のステキな部分を切り取るわけですが、みていると
ああ。この人はいいなあ。
ああ、羨ましいなあ。
いいなあ。いいなあ。
が、しんしんと降り積もる。
が、しかし。
あ!これは執着だわ!
そんな事考えちゃいけない!!
手放さなきゃ手放さなきゃ、みたいにもがいてると、その嫉妬の渦みたいなものに巻き込まれたりしてとてもしんどい。
そして、まだまだ修行が足りんのだわ…
みたいな事で反省するわけです。(坂爪さん的にいうまじだせえみたいな気持ちに近い)
そもそも、私の大学時代、全てのエネルギーは嫉妬という程どろっと濃いものではないけど【羨ましさ】から来ていたと言っても過言では無い。
私よりデキる周りの人全員が羨ましかった。悔しく感じていた。
自分の何もかもに納得が出来なかった。
(そもそもそんなこと言い出したらもう本当にキリがなかったのにねえ。)
ヨガをし始めた最初も頭で哲学を理解してちょっとは変わったけど、ちゃんとそれが現実に反映されていなかった。
理解する、から、体験するの壁を超えていなかった。
だからところどころに「やっぱりいいなあ。」と羨ましくて悔しくかんじたりしていた。
そうやって自分の【いまここにあるものやこと】を無視し続けていたわけですが、
このブログを読んでいる方には御察しの通り(?)ここ数年、それをうまく手放して行けることが多いのです。
方法は簡単でした。
もし嫉妬心みたいな気持ちがきたら、
その気持ちに負けてみる。
ははー。その通りである。私は今、嫉妬しているのであるー。ははー。ひかえおろ~。
みたいな感じでもう起きたことにひれ伏してみることにしました。
そして、その素直に負ける気持ちの声と一緒に、カフェで友達と話すときみたいに肘をつくようなまったり感で
『いいよねえ、あれ。わかるよ。私もああなりたいもの。』
って一緒に話し合ってると、その嫉妬心が、
『ようやくわかったか!じゃ、あとはよろしくね』
みたいなさっぱりとした感じで何処かへ消える。
え?
今まで私の心を占拠していたあのガッツはどこ行ったのよ、と言わんばかりにすんなりいなくなる。
たまにその気持ちが別の事に乗って帰ってくるけど、
一度付き合い方がわかると彼女(その気持ち)はもう、私の中には長居しない。
「ほんとはこうなりたいんでしょ!あんたが認めないから私が出てきてやってんのよ!」
みたいな二次元のキャラクターみたいな存在なんだろうと、私は思うことにしている。
しかも最近気づいたけど、
このキャラクター、私の中で昔はもっと男っぽかった。
「ほれ、あいりよ!もっとちゃんと自立しないと!!!」
「あいりよ!!周りの人に負けちゃいかんぞ!!!」
みたいな熱血漢な男の人っぽかったけど、最近は女の人っぽい。
だからなのか、最近自分でも思うのですが、
女性、というものに近づいたと思っています。
なんでしょう。不思議。
ともかく、折れてもいいや、負けてもいいや、と思うと心は軽くなることを実感しています。
例えば私の考えや意見が間違ってるよ、と言われても、その指摘の意見さえも認めるも、否定するも自由。
そして脳みそで認識する私でなく、大元のタマシイみたいなとこの【私自身】は何も傷つくことは無い。
だから負けてもいい、ということがちゃんと腹に落ちたからなのか。
足の裏が汚くたって載せてもいいよね。別にウエストも細くないし乳もないけど、いいよね!笑
何を思われたって、「私そのもの」を傷つけることはできないのだし。同じように誰かを傷つけることも、表面的にできても本当のところではできない。
こう見ると、学べた、ということも確かではあるのですが、
ある側面では嫉妬とかは若さゆえのガッツみたいなものだったのかもしれません。
エネルギーの塊というか、エネルギーの出口の糞詰まりだったのか。
嫉妬を悪いこと、醜いこと、と捉える風潮が、本当は私の望んでいることを我慢させていて、気持ちは常に
『気づいてくれー!気づいてくれー!おーいー!』
と言わんばかりに存在を主張していたのかもしれない。
そして気づいてくれたらそれでほとんどOKで。
そこからもし自分もちゃんと心の底の想いを現実に叶えられたらもうその嫉妬心サマと会うことはないのでしょう。
(また別の嫉妬心サマ2号、3号、、、と続くにしても。)
嫉妬だけじゃなくて、色んな気持ちにこれは使えます。
怒っている時も我慢せず、『わたし、○○で今怒ってるから』って声に出してみたりします。
ポイントは、その気持ちと私は別のものとしてこれをする事。
怒りと私が一緒にならないこと。
嫉妬と私が一緒にならないこと。
悲しみと私が一緒にならないこと。
それらは【気持ち】という脳の信号です。
【私】ではない。
だから、怒っている気持ちを表にだすけど、ぶつけてはいけない。気持ちと一緒に何かと戦わない。
気持ちに
『怒ってるんだねえ!ねえ~。はい、これでも飲んで!』と飲み物を奢ってあげるみたいな感じであつかう。笑
ないがしろにするわけでも無く、
一緒になるわけでもない。
これが認める、ということなのかな、と思うのです。
そう思うと気持ちってやつらは可愛いやつですわ。。。
と勝手にキャラづけするのがマイブームの私でした。
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